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(鏡沼跡)
松尾芭蕉は東北を旅した俳人です。
福島県県中地方は芭蕉の足跡が多く残っていて、今日紹介する鏡沼跡もその一つです。

それを裏付けるように、奥の細道にはこんな一説があります。
かくして越行まゝに、あぶくま川を渡る。
左りに会津根高く、右に岩城、相馬、三春の庄、常陸、下野の地をさかひて、山つらなる。
かげ沼と云所を行に、けふは空曇りて、物影うつらず。
(現代語訳)
白河の関を越え、阿武隈川を渡った。
左側には会津磐梯山が高くそびえ、右側はいわき、相馬、三春の地があり、茨城県や栃木県の境界には山が連なる。
「かげ沼」というところに行ったが、今日は空が曇って物影が映らなかった。
この「かげ沼」というのが、鏡石町の鏡沼跡です。
ただ諸説あって「かげ沼」は特定の沼の呼び名ではなく、むかし、矢吹から須賀川にかけて湿地が続き、辺り一帯が「かげ沼」と呼ばれていたとする説もあるのです。
ここでは鏡石町のサイトで「鏡沼=かげ沼」となっていますので、それに準じて鏡沼跡=かげ沼とします。
また「物影」と記されているのは、古い文献によればこの沼には蜃気楼が起きるといわれており、芭蕉はそれを見ることができなかったため心残りを書いたものといわれています。
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(芭蕉と曾良の像があります)
鏡沼跡でもう一つ。
鏡沼には『鏡沼の伝説』というのがあります。
鎌倉時代。都の若武者・和田平太胤長(たねなが)は、時の執権・北条時政の悪政を改めんと討伐を企てました。
しかし、策謀は事前に発覚し、胤長は遠く奥州岩瀬の地へ流されてしまいました。鎌倉に残された胤長の妻・天留(てる)は、夫への慕情耐えがたく、夫の跡を追ってひとり奥州へ。
幾日も歩き続け、ようやく鏡石へとたどりついた天留を待っていたのは、夫の非業の死でした。悲嘆に打ちのめされた天留は、もはや生きる望みはないと、沼に身を投げたのです。
この時、彼女が胸に抱いていた鏡は、今でも水底から哀しげな輝きを放ち続けているといわれています。(引用元:鏡石町
悲しい伝説が残る沼ですが、こんにちでは都市公園として整備されゆっくり遊べる場所です。
いにしえに想いを馳せられる鏡石町へ、ぜひお越しください!
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<鏡沼跡>
鏡石町鏡田かげ沼町226
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